重久氏系図とは?
『重久氏系図』は江戸時代の天保十年(1839年)、薩摩藩の記録奉行・伊地知 季安によって作成されたものです。
その序文によれば、季安は、当時豪商(木綿織屋)で莫大な献金等の功により小番土・町奉行格となった重久佐次右衛門篤極から系図作成の依頼をうけ、同人持参の系図草稿をもとに「重久千右衛門家系図」を作成したとあります。
一方、季安は大隅国曽於郡重久村を本貫とする税所氏族重久氏の本流が近世初期に至って没落し、その縁家に当る額娃主膳付郷土鎌田直右衛門のもとに古系図文書等が伝存していることを承知していました。しかもそれらが宝永年間、記録所によって調査済であり、その内容についても知っていたとみられ、その旨を篤極に紹介、篤極は鎌田氏と交渉してその全てを譲りうけました。(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ二解題参照。)
こうして作成されたのが「藤原姓重久氏系図」であり、宇多天皇にはじまり篤兼を初祖とし、篤眞(道)を元祖とする篤明ー祐明ー朝明ー篤朝ー篤兼ー篤宣ー祐宗ー篤俊ー祐次ー祐元一篤之ー篤□ー篤以に至る十四代の系譜を文書を交じえつつ編成しています。
それらは『旧記雑録前編一』にほぼ同文が収載されていて、「重久篤兼譜」・「重久氏文書」の如く記されています。また末尾には天保十年九月十四日付、足立盛成の重久佐次右衛門(篤極)宛の証状があり、接装済の本系譜帳一冊を藩主の閲覧に供し、好評を得たことを記しています。
なお重久篤極の後は養子篤行が天保十年家を去り、篤極晩年の子(天保三年生)佐平太が跡をとり、明治五年には国立第五銀行頭取となりました。しかし西南戦争に参加したため除族となって明治十七年に亡くなり、その子篤澄も父に先立って死去していたため、絶家となりました。
重久佐次右衛門と佐平太については、秀村選三編『薩摩藩の構造と展開』所収、伊丹正博「創設期第五国立銀行の史的研究」、古川常深「明治初期第五国立銀行と承恵社の形成過程について」、尚古集成館紀要七、松尾千歳「明治初期の島津家資産をめぐる諸問題」に関説されています。
ー鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊知地季安著作史料集4より