税所会のプロジェクト

『税所一族千年史』

税所会では、
税所一族の始祖・藤原篤如が、
京都から大隅国に下向した治安元年(1021年)より、
ちょうど千年という節目の年を祝い、
『税所一族千年史』(仮称)を発行する予定です。

尚、当初令和4年(2022年)完成を目指していましたが、
コロナ渦によりスケジュールが遅れ、
令和5年(2023年)以降となりました。
なお、発行時期は2023年10月現在、未定です。

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『税所一族千年史』(一部抜粋)



  ※ 鎌倉時代の大隅国の御家人名簿の筆頭に記されている藤原(税所)篤用の名



 




税所 篤

 

 税所篤(一八二七~一九一〇)は、西郷隆盛・大久保利通と共に「薩南の三傑」と称された人物として知られています。また明治三十一年(一八九八) 九月十八日から明治三十三年(一九〇〇)五月三十日までの一年九ケ月の間、第三代霧島神宮宮司も務めました。 

 幼少期は生活が苦しかったといいますが、兄の篤清(乗願・真海)が鹿児島城下の吉祥院住職として島津久光の寵遇を得たことから境遇が変化しました。
初めは島津斉彬によって藩庁の勘定所郡方や三島方蔵役に抜擢され、また幕末期薩摩藩において重要な役割を果たした精忠組の創設メンバーとして、幼少期からの親友で郷中仲間でもあった西郷隆盛や大久保利通、吉井友実らと行動を共にしました。 

幕府によって長崎海軍伝習所がつくられると、五代友厚や川村純義らと共に操船術を学ぶために派遣され、また安政の大獄によって西郷が僧の月照と共に錦江湾に入水した際は、西郷が意識を取り戻すまで看病し、後に西郷が遠島処分になると、手紙で情勢を伝えて生活物資を送るなど、西郷を支援し続けました。 

 また江戸勤番となった際には、国学者・平田篤胤の門下生になり、薩摩に帰国した後も篤胤の著書『古史伝』を刊行の度に取り寄せました。この書に大久保が書いた建白書と精忠組の名簿を挟み、兄・乗願を通じて久光に献上したことで、大久保が久光の知遇を得ることになり、万延元年(一八六〇)には篤も久光の側近になりました。西郷の召喚が実現したのも大久保と税所篤の進言によるものといわれています。 

 元治元年(一八六四)の「禁門の変」では、小松帯刀率いる薩摩軍の参謀として、重傷を負いながらも長州藩を退却させています。第一次長州征伐後は、西郷隆盛や吉井友実と共に薩摩に強い恨みを持つ長州に赴き、長州の戦後処理も行いました。また三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿の筑前遷移についても、土佐藩の中岡慎太郎と協力しながら、京都・摂津国・長州藩の間を行き来しました。 

 慶応四年(一八六八)の鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩の御蔵役として参戦し、大阪の薩摩屋敷が旧幕府軍に包囲されると、樺山資雄と共に自ら屋敷に火を放って藩金三万両を持って脱出し、京都の西郷に届けています。徳川慶喜が江戸に逃亡した後でしたが、西郷はその金を戊辰戦争の軍資金にして東に軍を進め、篤は大坂に残り、新政府軍の財政処理を行っています。 

維新後は、明治元年(一八六八)に徴士内国事務局権判事大坂裁判所勤務として新政府に出仕し、その後、政情が不安定だった河内県・兵庫県・堺県・奈良県などの県令や知事を歴任し、経済振興や福祉厚生の他、教育行政、港湾改修、工場の建設、商工業振興、公園の開設などを行い、その行政手腕は他県の手本になったということです。 

また、南北朝時代の楠木正行への贈従三位の際には勅使を務め、明治天皇の奈良行幸や吉野宮(現吉野神宮)造営の建議、東大寺大仏殿南大門の修繕、神武天皇陵の修復などにも携わりました。尚、この頃に税所篤が大仙陵(仁徳天皇陵)の盗掘を行なったとの風説がありましたが、これは現在でははっきりと否定されています。 

また地元有志の意見を取り入れながら、当時大阪府の一部であった奈良県を分離して県として成立したことにも深く関わり、当時十四ヘクタールだった奈良公園を五三五ヘクタールまで拡張整備する際には、私財まで投じています。その他にも橿原神宮造営の要請や、私費を投じての吉野山の大規模な桜の植林、神仏分離によって荒廃した興福寺の再興、奈良県十津川の水害被災者の北海道入植事業なども行っています。 

このように税所篤は、一貫して皇室や日本の伝統文化の保護育成など、近代日本における文化振興に尽力しました。更に宮中顧問官、霧島神宮宮司、元老院議官、枢密顧問官、正倉院御物整理掛を務め、明治二十年(一八八七)には子爵を授けられました。特に大久保利通と、大久保の相談役として知られる五代友厚(明治八年・一八七五の大阪会議を準備)と親密だったといわれています。 

税所篤の書生をしていた村上浪六の自伝『我五十年』には、篤について「身体は五尺に足らずして精悍無比、顔面は備前焼の羅漢に類して一種異様の鬼気を帯び、いわゆる薩摩の鬢ハゲ以外その頭上に敵の散弾を受けしがため毛は薄くして生ぜず、左足の関節また弾丸のために屈伸自由ならず、体中の刀痕数箇所」と記されており、その風貌を推察することが出来ます。 

税所一族に伝わる口伝として、「我が系から霧島の神に仕える人を絶やしてはならない。必ず神に仕える人 がいなければならない」というものがあるといわれますが、この口伝を税所篤の霧島神宮宮司就任の背景と推察することも可能ではないかと思います。 

 

霧島神宮所蔵の文書には、 

 

西郷南洲、大久保甲東等ト交リ維新後各県知事ヲ歴任、晩年鹿児島ニ帰リ 数百年間祖先奉仕ノ関係上宮司トナリ奉仕中 再ヒ召サレテ枢密顧問官トナル 霧島国有林カ神宮ノ保管林ニ編入サレタルハ子爵多年ノ尽力ニ因ルモノ 

 

[意味] 

西郷隆盛、大久保利通等と交わり、維新後、各県知事を歴任、晩年鹿児島に帰り、数百年間祖先が奉仕をした関係上、宮司となり奉仕中、再び召されて枢密顧問宦となる。霧島国有林が神宮の保管林に編入されたのは子爵多年の尽力に因るものとする。 

 

とあります。現在の税所神社が明治二十七年に税所篤によって造営されたことを考えると、篤はこの想いを、税所一族の子孫達に託そうとしたのではないかと思います。 

 

 尚、第百二十五代天皇明仁上皇陛下の第一皇女・清子内親王が嫁がれた黒田慶樹氏の叔母が、税所篤のひ孫に嫁がれています。


税所敦子 


女流歌人で「明治の紫式部」と呼ばれた税所敦子(文政八年・一八二五 ~明治三三年・一九〇〇)は、京都鴨川の東、錦小路の林篤国の長女として生まれました。

林家は代々皇族に仕える武士で、篤国は文学のたしなみがあり、度々自宅で歌会を催していたということです。
敦子は六歳にして「わが家の 軒にかけたるくもの巣の 糸まで見ゆる秋の世の月」という歌を詠んで周囲を驚かせ、父・篤国の師の福田行誡(ぎょうかい・浄土宗の僧、仏教学者、歌人。明治第一の高僧と称された)に師事し、和歌の他に『四書五経』『万葉集』『源氏物語』などを学びました。また、香川景樹高弟の千草有功の元で指導を受け、同じ香川景樹門下の薩摩藩士・八田知紀や税所篤之と出会いました。
税所篤之は前妻との間の二人の娘を薩摩にいる母に託し、一人京都藩邸に出仕していましたが、文芸を愛好していたため、名家の千草有功卿を師として和歌を学んでいたということです。

弘化元年(一八四四)、二十歳の敦子は十六歳年上の税所篤之に嫁ぎました。敦子は篤之から絵を習っており、敦子の方から「このような絵を描く人と結婚したい」と言ったといわれています。
そして、嘉永二年(一八四九)に長女・徳子が生まれましたが、嘉永五年(一八五二年)に篤之が四十四歳で亡くなり、翌年、二十八歳の敦子は徳子を連れて、京都より鹿児島に下り、姑と篤之の先妻の子の世話をしました。自宅は甲突川ほとりの鹿児島市鷹師町にあり、次男・篤長の家族も同居していたため、十人以上の大家族だったといいます。またこの頃、敦子は薩摩の歌人・高崎正風と知り合っています。

やがて敦子の才徳兼備ぶりが城下でも評判になり、敦子は十一代藩主・島津斉彬の世子・哲丸の守役となりました。しかし安政五年(一八五八年)に斉彬が、翌年には哲丸が相次いで亡くなったため、十二代藩主島津久光に仕えました。

そして久光の養女の貞姫が近衛忠房に嫁ぐ際に老女に選ばれ、三十八歳の時に娘の徳子と共に鹿児島より京都に上京しました。
そして貞姫に書道や和歌、『源氏物語』などの古典を教えるうち、京都でも敦子の名声が高まり、公家の姫達が教えを受けにくるようになりました。その中には、後に明治天皇の皇后となった一条美子(いちじょう はるこ)がいました。

九年後に近衛忠房が亡くなると、敦子は明治六年(一八七三)に貞姫と共に東京麹町に移住し、静かに仏教や和歌の研究を行っていました。しかし前述の薩摩出身の八田知紀や高橋正風らに宮中への出仕を推薦され、特に敦子の教え子であった皇后の強い希望もあり、明治八年(一八七五)、宮中に召されて権掌侍に任じられました。そして明治天皇と皇后に仕えて和歌を詠み、明治期における宮中和歌の代表的歌人として知られるようになりました。

敦子の貞女ぶりは宮中でも変わらず、月に三回の水垢離を行い、天皇皇后両陛下と日本国民の安泰を祈り、『観世音菩薩普門品』の浄写を日課としました。敦子は女官達の手本となり、明治天皇と皇后より深く愛され、また五十歳を過ぎから、フランス語と英語も習得しました。

税所敦子は明治時代前期の歌人の中でも最も評判が高く、桂園派(香川景樹とその門下)の中でも随一といわれ、また「明治六歌仙」の一人にも数えられ、人々の尊敬を集めました。 

明治三十三年(一九〇〇)に七十五歳で亡くなった時は、新聞にも大きく掲載され、その一生が三回に渡って掲載されるなど、庶民にも絶大な人気があったようです。その後も女学校の修身の本にその生き方や文才が紹介され、女性の鑑とされました。

主な参考文献

『三国名勝図会 六〇巻、十二、巻之三十四-三十六』
   (著者・五代秀尭、橋口兼柄 共編、出版社・山本盛秀、明治三十八年)

『大隅国建久図田帳小考』
   (『鎌倉幕府の御家人と南九州』五味克夫) 
 

『大隅国御家人交名 写 二巻一五六ページ』写、底本『旧雑記録』
 (東京大学史料編纂所、日本古文書ユニオンカタログ)

 『現代語訳 吾妻鏡 七頼家と実朝』株式会社吉川弘文館 平成二十一年
 (『吾妻鏡』第二十一 建保元年五月六日) 
 

『南北朝遺文九州編 一巻』足利尊氏軍勢催促状 大隅 重久文書 一巻
 (東京大学史料編纂所、日本古文書ユニオンカタログ)

『南北朝遺文九州編 一巻』畠山義顕軍勢催促状写 薩藩旧記十八所収 重久文書
 (東京大学史料編纂所、日本古文書ユニオンカタログ) 

『南北朝遺文九州編』島津道鑑軍勢催促状 薩藩旧記二十二所収 重久文書
 (東京大学史料編纂所、日本古文書ユニオンカタログ) 

 『本藩人物誌 巻九-六』新納教義 昭和四八年
 (鹿児島県立図書館 鹿児島県史料集 第十三集 本藩人物誌 PFDその二 )
 

『日向古文書集成』(宮崎県編)
  (昭和十三年 国立国会図書館デジタルコレクション)
 

『薩州旧伝記』

  (戦国薩摩の君臣言行録  国立公文書館内閣文庫デジタル資料)

『諸家大概』
  (鹿児島県史料集 第六集 鹿児島県立図書館 昭和四十一年)

 『重久氏系図』
  (鹿児島県史料「旧雑記録拾遺」伊地知季安著作資料4 
    鹿児島県歴史資料センター黎明館編)
 

『薩藩海軍史』
  (公爵島津家編輯所編纂 薩藩海軍史刊行會、1928-1929、上・中・下巻)


『西南記伝』
  (黒龍会 明治四二〜四四年)

『鹿児島神宮史』
  (鹿児島神宮社務所 平成元年八月十五日発行)

 『鹿児島城下絵図散歩』
  (塩満郁夫 友野春久 高城書房 平成十六年) 

『霧島神宮誌』
  (霧島神宮誌編纂委員会編 令和元年)

左(上)は、平成13年(2001年)に税所会が編纂した「税所一族史記
右(下)は、令和元年(2019年)に霧島神宮が編纂した「霧島神宮誌

 ※「税所一族史記」は、完売しております。

 ※「霧島神宮誌」(「第三章 霧島神宮と税所氏」収録)は、
霧島神宮様にお問い合わせください。