税所会ホームページ

税所会とは?

鹿児島県霧島市にある霧島神宮の本殿横に、
税所神社が鎮座しています。
税所神社は、税所一族の始祖
藤原篤如命(ふじわらのあつゆきのみこと)を
お祀りする神社です。
税所神社を崇敬する税所一族の会を、
税所会といいます。

税所一族とは?

税所一族は、平安時代から鎌倉、
室町時代にかけての約460年の間、

 鹿児島県霧島市を中心に
鹿児島市北部まで勢力を広げた一族です。 

 平安時代の治安元年(1021年)、
税所一族の始祖・藤原篤如命が
京の都より大隅国(現在の鹿児島県東部)に下向しました。

そして、霧島宮
(現在の霧島神宮)座主職、
正八幡宮
(現在の鹿児島神宮)政所職
などを務めながら、
その神領を治め、
米を奉納するなどの神事を
司ったことから、
子孫は「税所」という官を
賜りました。

 また、京の朝廷に仕える大隅国の在庁官人として、
 国府に置かれた国衙という役所で

 租税徴収などを行う
「税所」という役職につき、
藤原姓とともに
「税所」の称号を名乗りました。


鎌倉時代になると、
鎌倉幕府の御家人として、
曽於郡郡司、薩摩満家院郡司職
などを務めましたが、

戦国時代初期の文明15年(1483年)に、島津氏の軍門に下りました。


税所一族には、
宗家の重久氏、税所氏、最勝寺氏、川畑氏、河俣氏、河畑氏、白坂氏、妻屋氏、姫木氏、姫城氏、坂元氏、神田氏、神田橋氏、堀切氏、堀添氏、松永氏、田口氏、芦江氏、芦谷氏、東芦谷氏、西芦谷氏、川北氏、川汲田氏、堀内氏、野添氏、宮田氏、羽阪氏、馬場氏、松元氏、清水氏、入水氏、浜川氏、浜崎氏、川波田氏、白江氏、中俣氏、石野田氏、赤坂氏、長山氏、篠田氏、篠原氏、吉村氏、上野氏、大窪氏、岩戸氏、徳重氏、木野田氏、岩田氏、前田氏、山下氏、山元氏、長野田氏、蔵原氏、池島氏、重枝氏、長田氏、迫田氏、古川氏、小川氏、池田氏、瀬戸口氏、花堂氏、渕川氏、宮司氏、永山氏、篠ヶ迫氏、葦江氏、郡田氏、川上氏、蘆原氏、飛騨氏、関氏、岩門氏、塩水氏、鎌牟田氏、迫間氏、松山氏、止上氏、
などの姓を名乗る方々がいるといわれています。

鹿児島県や宮崎県などに
ゆかりのある方で、
これらの姓を名乗る方は、
税所一族の可能性が高いと思われます。

藤原篤如


税所一族の始祖
藤原篤如命(ふじわらのあつゆきのみこと)は、
第59代宇多天皇の第八皇子、敦實親王の子孫で、

正五位下の位を持つ貴族だったといわれています。

平安時代の治安元年(1021年)に
霧島神宮の大神司を命じられ、
大隅国(現在の鹿児島県東部)に下向したと伝わります。

この写真は霧島神宮境内にある
樹齢800年のご神木の杉の木です。
木の枝のこぶが、
ちょうど本殿に向かって祈る
烏帽子姿の神官の姿に見え、
霧島神宮の七不思議のひとつに数えられています。






『税所一族千年史』

編纂プロジェクト

税所会では、
税所一族の始祖・藤原篤如が、
京都から大隅国に下向した治安元年(1021年)より、
ちょうど千年という節目の年となる2021年を祝い、
『税所一族千年史』を作成します。


情報やご興味のある方は、
どうぞお気軽にご連絡ください。

霧島神宮

霧島神宮本殿 国宝指定(令和三年)

【所在地】鹿児島県霧島市霧島田口2608‐5

御主神・天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊

霧島神宮は、天祖・天照大神の御神勅を戴いて、三種の神器と稲穂を捧持し、高千穂峰(霧島連山)に天降り、皇基を建てられた 日本の肇国の祖神 ・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を主祭神として奉斎しています。

旧記によりますと、欽明天皇の御宇(西暦540年)、高千穂峰に近い脊門丘に社殿が創建されましたが、霧島連山の噴火活動により度々遷座を繰り返し、現在の地にご鎮座されたのは、今から500年前の江戸時代のこととなります。

税所一族は、平安時代から戦国時代にかけての約460年の間、霧島神宮の大宮司などを務めながら、その神領を治めたと伝わります。

島津氏の臣下に下り勢力を失った後も、霧島神宮への護持に務め、明治維新後には、「南薩摩の維新の三傑」とも称される税所篤が宮司職に就くなど、千年に渡る崇敬を続けています。

税所氏と関係があると思われる神社

鹿児島神宮


【所在地】鹿児島県霧島市隼人町内2496番地1 

御祭神・天津日高彦穂穂出見尊    豊玉比売命

由緒・創祀は遠く神代の時代に遡り、境内は御祭神の皇居・高千穂宮跡で、皇祖発祥の聖地である大隅一ノ宮、大隅正八幡宮の名をもって知られ、国家の宗廟と尊称されました。

奈良時代に示された『延喜式』においても、薩摩・大隅・日向における唯一の大社と記され、平安時代末期には一ノ宮に、鎌倉時代には大隅国の三千町ある田のうち1296町を領する神社でした。

『鹿児島神宮史』には、四つある社家のひとつの最勝寺氏について「九条右相丞師輔(藤原師輔)より出、六代孫・道宗が寛治年間(1089~1094年)に下向し、姓は藤原朝臣、別当職、25石」とあります。
この最勝寺氏について、『三国名所図会』(江戸時代後期の薩摩藩編纂の地誌編纂文書)には、「税所氏と称して後、その子孫、重久、最勝寺を分かち 支族地方に栄えた」とあります。

また平成24年(2012年)には、霧島市隼人町宮内地区の国指定文化財「大隅正八幡宮境内及び社家跡」の大隅正八幡宮別当寺・弥勒院跡から、宗徒15坊のひとつで宗円坊を名乗る、税所氏の屋敷跡が発見されました。

ここから、古代から中世にかけての竪穴建物や柱穴、平安時代から鎌倉時代にかけての品々が多数出土し、焼き物では、中国産の白磁や龍泉窯系の青磁、国内の東播系須恵器、常滑焼、備前焼が出土しました。また、埋葬された成人女性の人骨が発見され、副葬品の硯と松喰鶴鏡(松をくわえた鶴が二羽対面する図柄の銅製和鏡)も出土しました。

止上神社


【所在地】 鹿児島県霧島市国分重久1896

御祭神・彦火々出見尊  豊玉姫命 瓊々杵尊 木花咲耶姫命 葺不合尊 玉依姫命

由緒・囎唹郡惣鎮守六社大権現と称され、祭神は六座、日向三代の神です。
創建の年月は明らかではありませんが、社記によれば、景行天皇の御宇、日向の隼人が叛いて天皇親に征伐された際、六所権現の霊神が大鷹となって擁護を加え、怱ち叛賊を平定されたため、その神霊を崇め祭ったとされています。

往古は今の社殿の東方の尾牟礼(おむれ)という山の絶頂に鎮座され、この山をご神体として山上を拝しましたが、その後、今の地に社殿を造建し神霊を勧請しました。

尾牟礼山上には六箇の石祠があり、止上神鎮座の跡といわれています。
また中世まで王の御幸という祭式があり、毎年正月七日に神輿を守り下り、同月二十二日に至るまで行廟(四ヶ所)を行って、種々の神供を献じ祭りを行いました。
これは隼人の霊魂が祟りをなして人民に害を及ぼしたため、当時御幸の式を設け、その霊崇を鎮めた大祭であったといわれています。慶長の中頃まで毎年執行されましたが、その後廃されたといいます。当社の南西には、もう一つの隼人塚と称される森があります。

得仏公(島津忠久公)の時、領内に七社と称する神社があり、当社はその第三の神社でした。第一は頴娃開聞社、第二は水引新田宮、第三は当社、第四は国分鹿児島神社、第五は霧島社、第六は日州佐土原妻萬社、第七は都城庄内稲荷社でした。この七社を、得仏公が毎年参詣されたといいます。

『鹿児島県の地名』(平凡社)によれば、古代から中世に噌唹郡に勢威を振るった税所氏の氏神で、総鎮守六所大権現と称されたといいます。


税所一族と

関係のある城

橘木城

姫木城

清水城


鹿児島県霧島市の国分平野には、中世の城郭跡が、主なものだけでも10ヵ所残っています。

鎌倉時代以降、税所一族は在地豪族として、橘木城を本城に、姫木城と清水城を支城としながら、大隅国の曽於郡と小河院一帯(現在の国分・隼人一帯)に勢力を広めました。
税所一族は大隅国の在庁官人・国方御家人として、曽於郡群司・薩摩国満家院群司・正八幡宮政所職・霧島神宮座主職・止上大宮司職なども務めました。

霧島市国分郷土館には、税所氏に関する資料もたくさん展示されていますが、橘木城(霧島市国分重久)からは、平安時代から中世にかけての、中国製の白磁などの遺物が出土しています。

南北朝時代(1336年頃)には、足利尊氏や畠山義顕が、橘木城城主であった税所一族の重久篤兼に軍忠状(東大史料編纂所所蔵)を送っています。
重久篤兼は、畠山義顕が日向・大隅入りした際、島津貞久や本田久兼と共に北朝方として、南朝方の肝属兼重や伊東祐広と対峙しました。
また1342年頃に、後醍醐天皇の皇子の護良親王が薩摩に入った際も、重久篤兼は北朝方の島津貞久と共に戦いました。

「観応の擾乱」(1349~1352年)の後、薩摩・大隅・日向地方は、南朝方(護良親王・三条泰季・肝属兼重・楡井頼仲)、武家方(島津貞久・島津師久・島津氏久)、佐殿方(足利直冬・畠山直顕)の勢力争いの場となりました。
大隅国の豪族の税所・肝属・楡井氏は佐殿方につき、武家方の島津氏と対峙しました。

しかし中央で足利直義が足利尊氏によって討たれ、佐殿方の勢力が没落したことで、薩隅日三州の島津氏に敵対する勢力も、次第に力を失っていきました。

重久氏系図

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 伊知地季安著作史料集四』に記載されている『重久氏系図』をご紹介します。

天孫降臨神話

日本最古の水田

佐名田の長田

「佐名田の長田(さなだのおさだ)」は、日本最古の水田跡といわれています。
ここは、高千穂峰に天孫降臨された瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、初めて水稲を作られた田と伝えられています。
そして御子の彦穂穂出見尊 (ひこほほでのみこと)がお生まれになった際は、この田でとれた新米で甘酒を作り、飯を炊いてお祝いしたといわれています。
昭和20年(1945年)の終戦までは、霧島神宮の神田とされ、ここでとれた新米で、毎年新嘗祭の行事が執り行われていました。
霧島神宮の神田を管理していたと伝わる税所一族も、深く関係していたことと思われます。戦後、民有地になりましたが、現在は霧島神宮の斎田として管理されています。

税所神社祭

毎年4月28日に、霧島神宮にて、
「税所神社祭」が執り行われています。
毎年、200人程の税所一族の方々が、
全国から集まっています。
参加ご希望の方は、
霧島神宮までお問い合わせください。

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